阪神淡路大震災から20年

あれから20年が経ちました。
今でもあの時に体験した記憶は鮮明に残っています。

20年前の早朝。
私は当時アルバイトをしていた「芦屋レグルス」というチーズケーキのお店に出勤するところでした。
車に乗って家を出た瞬間いきなり車が大きく揺れ出しました。
最初はエンストかと思いましたがすぐに地震だと気づきました。
車内で体を縮めながら耐えていると、窓の外で火花が散っていました。
電線が切れて出た火花だと知ったのは随分あとでした。
とても長く感じた揺れ。やっと収まったので恐る恐る道を下って
ちょうど苦楽園小学校の上にある橋の辺りでふと夜景を見渡すと
至る所で火事の火が見えました。
苦楽園を下ると、壁が崩れている家が何件か確認出来ました。
それまではそんなに大惨事だとは感じていませんでした。
岩園トンネルをくぐって芦屋のお店に着いた時ぞっとしました。
500キロはある大きなガスの石釜が1メートル以上奥にずれていました。
丁度そこは私たちが作業を行う場所です。
もし地震があと30分遅く発生していたら
私は今こうしてこの文章を書いてなかったかもしれません。

事の重大さに気づいた私はすぐに当時付き合っていた芦屋浜側に住む彼女のもとへ車で向かいました。
43号線を渡ろうとした時、私は大きな違和感を感じます。
普段いつも見えるものが見えません。
43号線に到着すると、そこには横倒しになった高速道路がありました。
そこからはどうやって彼女の家に行ったのか覚えてません。
ただ、到着したら泣きながら彼女が飛び出してきて
家の前では彼女のお父さんが半壊した家を呆然と眺めていました。
入院生活をしていた彼女のお母さんは、彼女が成人式だったので一時退院していました。
短い期間だからと、必要な薬は最小限しか持って来ておらず
その薬が切れたら発作が起きるといわれました。
私は近くの病院に言って薬を見せて出してもらえないか相談しました。
しかしその薬は特殊なもので、大阪の阪大病院にしか手に入らないと言われました。
私は大渋滞の中7時間かけて阪大病院に行き、受付で状況を説明して薬を出してもらうよう説得しました。
しかし、結局処方箋がないと出せないと言われ断念して帰りました。
彼女のお父さんは結局、長田にある病院まで半日掛けてお母さんを連れて行きました。

当時電気は割と早く復旧しましたが、水道やガスはかなり時間が掛った記憶があります。
父と余震に気を付けながら甲山高校近くの川に水を汲みに行きました。
お風呂は1週間近く入れませんでした。
私はせめて彼女にはお風呂に入れさせてあげたいと思い、車で大阪のホテルまで連れて行きました。
大阪でお水や非常食を買うために街へ出たとき、嘘のように平常な大阪の街並みを見て怖さを覚えました。

私の父の実家である濱口乾物の会社も、市場のお店も全壊でした。
私は父と一緒に半分以上傾いたお店に入って品物を運び出す作業を行いました。いつ崩れるかもわからない中での作業は恐怖でした。
市場のほとんどのお店が大きな被害を受けていました。
でも私が作業を終えて帰る途中、おじさんが「これ少ないけど持っていきや」と野菜をわけてくれました。
こんな状況の中でもみんな助け合っていました。

忘れかけていた震災の記憶。
記憶が薄れていくのは生活が平常に戻っている証なのかもしれません。
しかし、未だこの震災で受けた傷が癒えてない方もいらっしゃいます。
西宮はこの震災で多くの事を学んだはずです。
この経験がしっかり防災へ活かされるよう、意識だけは忘れずにあり続けたい。
そして親として少なくとも震災を知らない我が子には、この震災の経験を語ってあげたいと思います。

震災で亡くなられた尊い命に心からご冥福をお祈り致します。