7月23日(土)に開催予定の苦楽園夏まつりのポスターが完成しました。
とても素敵なポスターが完成して、実行委員会の皆さんが大変喜んでくださいました。
お祭りの日がとっても楽しみです。
さて一般質問もいよいよ明日で最後となります。
昨日我が会派のわたなべ議員が、市政報告紙の内容に問題があるとして一般質問にて質疑を行いました。
わたなべ議員のブログ
そして、その内容が今朝の神戸新聞に取り上げられました。
問題となったのは、市政報告紙に記載された若者に参院選の投票を呼び掛ける記事の中で
「政治家は『国民の代表』ではなく、『投票した人』の代表に過(す)ぎない」
という内容です。
日本国憲法第43条では
「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」
とされており、明らかに誤解を招く表現です。
問題なのは、こうした表記を公平かつ公正であるべき市政が発行する情報紙によって用いられたことにあります。
これについて市長自ら回答してます。
<以下市長答弁>
結論から申しあげますと、憲法に反する表現ではございません。
確かに、憲法43条は、両議院の議員を全国民の代表としております。また、私を含む選挙で選ばれた政治家は、投票した人の代表ではなく、市民全体・国民全体の代表として振る舞うべきですし、市民全体・国民全体の代表であると扱われるべきであると考えます。
しかし、一方の市民・国民、ないしは有権者、ないしは投票者にとっては、「政治家は国民の代表ではなく投票した人の代表にすぎない」ということは論理的に誤謬であるとは言い切れません。
なお、この場合の投票した人の中には、当然、落選者を選んだ人も含まれます。
民主主義において政治家は、投票の結果を最も正確な民意として判断するべきです。選挙結果こそは、ありとあらゆる「民意の具現」のなかで、最も公正で平等で公式のものであるからして、それこそを民意とするにはあらゆる正当性があります。
その意味において、投票に参加しなかった人は、政治家が最も公正な判断材料にすべきものに参加していないことから、政治家に「代表」としての行動を期待する権利を放棄したことになってしまいます。その意味において、彼は政治家に「私の代表」と言える権利を放棄してしまったことになります。
つまり、「選挙で選ばれた人であっても、投票しなかった人にとっては代表ではない」と言えてしまいます。
民主主義において何を民意とするか、代議制民主主義において何を代表とするのか・もしくは代表を何の代表とみなすのかは、政治学においてたいへん重要な議論です。なぜなら、完全に民意といえるもの・正確に代表といえるものは存在し得えないからです。そのため、何かをもって民意としてよいか、何かをもって代表としてよいか、それを何らかで定義してその定義を共有することによって、民主主義を正当化することができます。円周率は正確には3.14ではないが「3.14とする」と先に定義することによって以降の計算を可能にするようなものです。
代議制民主主義の政治制度において、「完全に正確な民意・完全に正当な代表」は存在し得ないため、必ずどこかで「何をもって民意とするのか・代表とするのか」を改めて定義する必要があるのです。現に、全国区以外の国会議員選挙では、選挙区から選ばれた「選挙区住民の選んだ代表」を「全国民の代表」とみなしております。「選挙区住民の選んだ代表」も「選挙に投票にいった有権者が選んだ代表」も、「全国民の代表」とみなすことについて、憲法その他の法令で規定することによって、日本の政治は民主的正当性を担保されています。
このように、もちろん憲法上、政治家は「国民の代表」と定義され・正当性を担保されますし、そうでなければ国会での議論の正当性が担保されません。しかし、政治学における議論では、どこまでいっても政治家は「選挙に投票にいった有権者が選んだ代表」です。
それを「全国民の代表」とするのは、その次の、定義の段階、運用の段階の議論です。
これらの議論は、政治学的には一般的に議論されていることですので、憲法に反する記述である、ないしは誤謬であるという認識はございません。
市政ニュースのこの記事の読者は市民全体であり、その読者のなかには選挙で選ばれた政治家や選挙に候補者として参加した経験のある人もある、という意味においては、一見、憲法43条の規定と矛盾するかのような「政治家は国民の代表ではなく投票した人の代表にすぎない」という記述に違和感をもつ人がいるだろうことは一定認めますし、渡辺議員ご指摘のこの議場にいる市議会議員の皆様はすべて、一部の市民ではなく市民全体の代表として正当性をじゅうぶんに定義されていますし、その矜恃をもって活動していることには敬意を払うものです。
しかし、この記事の対象は、あきらかに「投票する側の人」であり、そのなかでもターゲットは「投票する権利をしばしば放棄する人」であり、「そのなかの若い人」や「今回の選挙で初めて選挙権を得た18歳・19歳の有権者たち」です。その対象者の立場に立てば、その記述は論理的に誤謬ではありません。「政治家は国民の代表ではなく投票した人の代表にすぎない」は、言い換えるなら、「投票した人の代表である政治家であっても、国民の代表として正当性が担保されるというルールなのですよ」とも言えます。
記事の目的は、あらゆる論理で投票に行くことの意義や責任や正当性を訴えることであり、不適切であるという認識はありません。
むしろこのように話題としていただいたことは、啓発上、大変ありがたく思っており、すべての西宮市民の皆様には、全国民を代表する参議院議員の選挙で、投票に行っていただきたいと思っております。
<以上>
感想ですが、とっても長いです。。
要は「憲法に反する記述である、ないしは誤謬であるという認識はございません。」ということです。
正直、驚愕の返答です。。
西宮市民の税金で印刷され、配布された公平公正であるべき市政ニュースに記載された文章です。しかも初めて選挙権を行使する若者たちへ選挙の重要性を伝えるためのメッセージです。その西宮市に住む若者たちに対して2000文字近い説明がなければ正しく理解されない「政治家は『国民の代表』ではなく、『投票した人』の代表に過(す)ぎない」という、憲法の理念に反するとも捉えられかねないキャッチを使用することに問題がある、ということを指摘しているのです。
県の選挙管理委員会も、この記述に対して「問題がある」としています。
投票したら、ぜひ投票した政治家のその後もしっかりと見ていただきたいです。
フェイスブックやブログ、新聞、個人が配布するチラシなどいろんな角度で政治家の日々の活動や考えをチェックしてください。年に4回開催される定例会では一般質問や委員会なども行われており、市役所横にある議会棟にお越しいただければ一般の方でも傍聴できます。さくらFMやインターネットでもやり取りを確認できます。
私は前回の市長選挙を手伝い、1年間ほぼ毎日無償でチラシを配り続けました。当選後は秘書も務めました。理由はただ1つ。当時市長候補者であった彼が掲げた「マニフェスト」を読んで共感したからです。マニフェスト大賞では優秀賞まで受賞し、市長のHPに掲げられた「マニフェスト」はもうどこにも存在しません。HPごと消されてしまいました。
マニフェストは言わば公約であり、「市長になれば実行します」という有権者との約束です。期間中も含めれば何百万枚と配布され、多くの市民の方々が見たであろうそれら約束を簡単に破棄したと捉えられかねない行為です。今回のキャッチをあえて使わせてもらえば、私は『投票した人』の代表を放棄したと解釈しています。
市議会議員としての私の職責は、市民にとって正しいことを提言することです。そして有権者でもあり、マニフェストに共感した者の1人として、私という立場だからこそ知り得る事実を伝えることも責任だと思っています。選挙前は抱いていた「仲間」という感覚はすっかり消えましたが、だからと言って「敵」という認識もありません。市長がどなたであれ、正しいことには協力しますし、間違いがあれば改善を促します。
これから初めて選挙に行く若い世代の方々に、私から1つアドバイスをするとしたら
「選挙で政治家を選ぶときは断片的な情報だけでは選んではいけない」
ということです。
そして投票したら、ちゃんと投票した政治家の活動を追い続けてください。
多くの方が実行できれば、政治はきっと良い方向に赴くと個人的には思っています。
第24回参議院議員通常選挙の投票日は7月10日(日)です。
そして2年後には西宮市長選挙、さらに翌年には市議会議員選挙が行われます。
皆様の大事な1票です。ぜひ投票に行きましょう。